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会津藩校 日新館

会津を通った際、会津藩校を見てきました。こういう所、実はたぬきさんが大好きなんですよね!!たぬきさんは歴史が好きですから・・・

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江戸時代も200年が過ぎ、太平の世になってくると、今までの風習が変わり、気のゆるみもでてきました。天明2年(1782年)から数年間続いた天明の飢饉をはさんで、会津藩でもいろいろな欠陥がでてきました。5代藩主松平容頌[かたのぶ] の時、会津藩家老田中玄宰[はるなか] は、藩政の改革をするよう進言し、その中心に「教育の振興」をあげました。このことが「日新館」建設のきっかけとなりました。日新館をつくるのは、大変な仕事でした。着工となってからは大司成[だいしせい] (現在で言えば文部大臣)、小司成[しょうしせい]、または日新館の教授、生徒たちまでが、草鞋[わらじ]をはき協力しました。

多額の建設資金は、大商人であった須田新九郎が大半を負担しました。

享和3年(1803年)、五ヶ年の歳月を費やし、文武の両教科を教授する総合学校ができました。

「日新館の教育目標は、人材の育成」の会津藩の方針のもとに、花色紐組以上の藩士の子弟は全て入学が義務付けられました。

日新館には什の掟というものがあって、下に載せますね!!

ちょっと今の子供たちにも、見習って欲しいところがありますね^^;

一、年長者[としうえのひと] の言うことに背[そむ]いてはなりませぬ

二、年長者にはお辞儀[じぎ]をしなければなりませぬ

三、嘘言[うそ]を言うことはなりませぬ

四、卑怯[ひきょう]な振舞[ふるまい]をしてはなりませぬ

五、弱い者をいぢめてはなりませぬ

六、戸外で物を食べてはなりませぬ

七、戸外で婦人[おんな]と言葉を交[まじ]えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです。

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かなり長い塀ですね!!この施設は規模が凄く大きいです!!

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実際に子供たちも学びに来ていたようです!!シッカリ学んで、明日の日本を背負っていってね^^

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         昔はこんな感じで学んだのでしょうかね。

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         池への写りこみがいいですね^^

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本当に大規模な施設ですね!!こういうところは本当に見ないとわかりませんね。

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                  お馬さんもいましたよ~~!!

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ご参考までに・・・・・・

日新館と白虎隊

慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦い後、会津藩では軍制をフランス式に変え、精神論ではなく戦力に重きをおいて、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊の年齢による組織に改め、力を注いでいました。

当時、会津藩の男子は、10歳になると藩校日新館に入学するきまりになっており、白虎隊の隊士達は、この日新館で学んだ16から17歳の少年達で編成されていました。

当初は、朱雀隊を主力として第1線に配置し、それに続く青龍隊に国境を護らせ、玄武隊、白虎隊、幼少隊は その予備に廻るという布陣でありました。したがって、白虎隊は実際の戦闘に出る予定はなく、主に城中の警護にあたっていました。 しかし、戊辰戦争が始まり、戦場が会津に移ることで、藩主松平容保は、白虎隊に出陣命令を下しました。一方、日新館は、戊辰戦争の激化に伴い閉鎖となり、臨時病院として使用されるようになりました。 その後、戸ノ口原の戦いに敗れた白虎士中二番隊は、炎に包まれた鶴ヶ城を眺めながら、飯盛山で壮絶な最後を遂げました。

優秀な人材を失ったこの悲劇は、時を越え今の世に戦争の空しさと教育のあり方を伝えています。
by miyullin | 2008-10-27 18:19 | 福島県
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